TOP > CATEGORY − B-14陳述書という名の暴力
被告側5人の陳述書の主な内容は、誰のものも、私への悪口とセクハラの否定ばかりが述べたてられていました。憶測に過ぎない事柄でも断定的に表現されているところが多く見受けられました。なかにはひどい嘘があって驚きました。
特に不気味だったのは、D会長の陳述書でした。Dは、「T山のHへのお詫びの文章はT山をDが脅して書かせました」と記述していました。私は詫び状の話など聞いたことがありませんでした。このことは、前の裁判でも被告会社が主張していたことでしたね。同じことを陳述書でも主張してくるとは、何か裏があると思われました。ほんとうにそのような話し合いの場が持たれたのか疑がわしく、私は、彼らが嘘の文書を工作したような感じがしてなりませんでした。
これら陳述書全文と、個々に対する私からの反論は別ブログに書きました。本ブログでは公開しません。閲覧希望の方は「被告側の意図とは?」の下方にある説明をお読みいただき、パスワードを取得してください。
ただし、陳述書をお読みでない方にも話の流れがわかるよう、最後の記事のみ以下に転載します。陳述書全体に対する私からの反論であります。(裁判所に提出したものではございません)
最後に、五人全員に共通しているところの、セクハラを否定する主張すべてに対して、私はこう問いたいです。
ターゲット以外の者が、加害者の歪んだ性をどこまで的確に認知することができるというのか。そして被害者の痛みを、頭の中だけではなくその胸で感じることが、いったい誰にできるというのか。
以上のことを考えると同時に、そもそもセクハラの有無を決めるのは被害者であることを忘れてはなりません。これこそが真理です。被害者が不快に思えばそれはセクハラであり、そのことを加害者や周囲の者たちが否定するのは妙な話です。
被害者にとっては、
「嫌なものはどうしても嫌」
なのです。そこを他人が曲げることはできないのです。
だから、私のセクハラの訴えを全否定することが、どうして彼らに許されようか!
本来ならば、彼らが何と言おうとも、私は「だからそれがどうしたの」という一言で彼らを一掃してよかったはずなのです。
陳述書については以上で終わりですが、被告側が求められもしないのに陳述書を提出したわりには、最重要で最優先されるべき被告、T山の文書が含まれていませんでした。M美が提出しなかったのは彼女のせめてもの誠意だったととらえることもできたのですが、T山は被告人であるからM美とは立場が大いに違います。T山を除外して裁判を進めることなどありえないのです。それなのに、そこを省こうとしているということは、彼らは真実を追求する目的は一切持たず、本題にたどり着けないようにしていたということです。彼らの発想は、もう下がりようもないほどに低俗でした。
裁判所はいったいどういうつもりだったのでしょうか。被害者の責任を問うという浅はかなやり方は古く、しかし未だに許されています。そのために私は、いっぺんに五人もの人間から、目を覆いたくなるような数々の誹謗中傷を、それぞれから次々に述べたてられ、それを新たな傷として受け入れさせられたのでした。
私は、まだ顔も知らない裁判官に、心でこう問いました。
あなたは和解を勧めたはずではなかったか。
なぜ、和解とは逆行する内容の陳述書を受理したのか。
それは被害者の混乱を招き、いたずらに傷つけるだけだということに気がつかなかったのか。
気づかずして裁判官として許されるのか。
それとも裁判官とて所詮は人間なのだからと、諦めろと言うのか。
特に不気味だったのは、D会長の陳述書でした。Dは、「T山のHへのお詫びの文章はT山をDが脅して書かせました」と記述していました。私は詫び状の話など聞いたことがありませんでした。このことは、前の裁判でも被告会社が主張していたことでしたね。同じことを陳述書でも主張してくるとは、何か裏があると思われました。ほんとうにそのような話し合いの場が持たれたのか疑がわしく、私は、彼らが嘘の文書を工作したような感じがしてなりませんでした。
これら陳述書全文と、個々に対する私からの反論は別ブログに書きました。本ブログでは公開しません。閲覧希望の方は「被告側の意図とは?」の下方にある説明をお読みいただき、パスワードを取得してください。
ただし、陳述書をお読みでない方にも話の流れがわかるよう、最後の記事のみ以下に転載します。陳述書全体に対する私からの反論であります。(裁判所に提出したものではございません)
最後に、五人全員に共通しているところの、セクハラを否定する主張すべてに対して、私はこう問いたいです。
ターゲット以外の者が、加害者の歪んだ性をどこまで的確に認知することができるというのか。そして被害者の痛みを、頭の中だけではなくその胸で感じることが、いったい誰にできるというのか。
以上のことを考えると同時に、そもそもセクハラの有無を決めるのは被害者であることを忘れてはなりません。これこそが真理です。被害者が不快に思えばそれはセクハラであり、そのことを加害者や周囲の者たちが否定するのは妙な話です。
被害者にとっては、
「嫌なものはどうしても嫌」
なのです。そこを他人が曲げることはできないのです。
だから、私のセクハラの訴えを全否定することが、どうして彼らに許されようか!
本来ならば、彼らが何と言おうとも、私は「だからそれがどうしたの」という一言で彼らを一掃してよかったはずなのです。
陳述書については以上で終わりですが、被告側が求められもしないのに陳述書を提出したわりには、最重要で最優先されるべき被告、T山の文書が含まれていませんでした。M美が提出しなかったのは彼女のせめてもの誠意だったととらえることもできたのですが、T山は被告人であるからM美とは立場が大いに違います。T山を除外して裁判を進めることなどありえないのです。それなのに、そこを省こうとしているということは、彼らは真実を追求する目的は一切持たず、本題にたどり着けないようにしていたということです。彼らの発想は、もう下がりようもないほどに低俗でした。
裁判所はいったいどういうつもりだったのでしょうか。被害者の責任を問うという浅はかなやり方は古く、しかし未だに許されています。そのために私は、いっぺんに五人もの人間から、目を覆いたくなるような数々の誹謗中傷を、それぞれから次々に述べたてられ、それを新たな傷として受け入れさせられたのでした。
私は、まだ顔も知らない裁判官に、心でこう問いました。
あなたは和解を勧めたはずではなかったか。
なぜ、和解とは逆行する内容の陳述書を受理したのか。
それは被害者の混乱を招き、いたずらに傷つけるだけだということに気がつかなかったのか。
気づかずして裁判官として許されるのか。
それとも裁判官とて所詮は人間なのだからと、諦めろと言うのか。




